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歴史雑談99 法隆寺の謎(10)
歴史雑談99 法隆寺の謎(10)  法隆寺のご本尊、釈迦三尊像の光背銘の謎について検討して参りましたが、法隆寺の全焼(歴史雑談92)、法興年号(歴史雑談94)、鬼前太后(歴史雑談95)、干食王后(歴史雑談96)、上宮法皇(歴史雑談97)、上宮法皇と聖徳太子の没年月日の相違(歴史雑談98)などの問題(謎)を検討することによって、一般的に言われている「上宮法皇と聖徳太子は同一人物である」という解釈とは異なる、「別人」ではないかという結論に導かれていきます。(釈迦三尊像光背銘の原文写真と読み下し文は、歴史雑談93に収録)。  釈迦三... ...続きを見る

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2011/10/09 14:26
歴史雑談98 法隆寺の謎(9) 
 法隆寺のご本尊である釈迦三尊像の光背銘(歴史雑談93に収録)に刻まれた上宮法皇の没年月日と、『日本書紀』に記す厩戸豊聡耳(ウマヤドノトヨトミミ)皇子(聖徳太子)の没年月日が異なっていることについては前回で述べました。上宮法皇は法興三十二年(622)二月二十二日、聖徳太子は推古二十九年(621)二月五日に亡くなっています。そして一般的には、第一級の金石文史料である釈迦三尊像光背銘に刻む没年月日が正しいとされ、日本書紀の没年月日は誤って記されたものとされています。  しかし、『日本書紀』は朝廷... ...続きを見る

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2011/10/05 09:41
歴史雑談97 法隆寺の謎(8)
 法隆寺のご本尊、釈迦三尊像の光背銘(歴史雑談93に収録)を、「釈迦三尊像は聖徳太子のために造られた」と解釈すると、理解しがたいいくつかの謎が浮かび上がってきます。例えば、法興年号、鬼前太后、上宮法皇、干食王后などの理解不可能な謎です。さらに加えて、聖徳太子の没年の違いというもっとも大きな謎が浮上してきます。  釈迦三尊像の光背銘に記す上宮法皇を聖徳太子のことだとすると、その没年月日と、日本書紀に記す聖徳太子の没年月日とが異なっているのです。  釈迦三尊像の光背銘は、  「二月二十一日、癸... ...続きを見る

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2011/09/30 12:10
歴史雑談96 法隆寺の謎(7)
 法隆寺のご本尊、釈迦三尊像の光背には、年代の古さにおいて、また、その質・量において第一級の金石文たる196字の銘文が刻まれています(歴史雑談93に原文の写真と、読み下し文を収録)。一般的には、その銘文の趣旨は「釈迦三尊像は聖徳太子のために造られた」と解釈されており、聖徳太子と法隆寺の深い関係を示す金石文だとされています。ところが、すでに見てきたように、そのように解釈すると、実に奇妙な意味不明の謎が銘文中に含まれていることがわかります。第一に、法興という年号、第二に、鬼前太后、第三に、上宮法皇な... ...続きを見る

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2011/09/22 15:51
歴史雑談95 法隆寺の謎(6)
 聖徳太子と法隆寺との深い関係を証明する史料として解釈されてきた、法隆寺のご本尊、釈迦三尊像の光背には、このご本尊が、聖徳太子のために造られた、とする定説では理解しがたいいくつかの奇妙な謎を含む、196字の銘文が刻まれています(銘文の原文写真と読み下し文は歴史雑談93に掲載)。  前回述べたように、その奇妙な謎の一つが、「法興」という年代であり、二つが「鬼前太后」という聞いたこともない女性の名前でした。両者とも大和朝廷とどのような関係があるのか、理解に苦しみます。聖徳太子は当時、大和朝廷の中枢... ...続きを見る

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2011/09/03 08:09
歴史雑談94 法隆寺の謎(5)
 前回でも述べたように、法隆寺のご本尊、釈迦三尊像の光背には196字の銘文が刻まれていて、それは、定説によれば、「釈迦三尊像は、聖徳太子のために造られた」と解釈されています。この解釈によって、つまり、光背銘によって聖徳太子と法隆寺の深い関係が証明されているわけです。そのためには、釈迦三尊像は焼失した法隆寺にあったものでなければならず、猛火の最中に持ち出されたものでなければならないのです。ところが、この光背銘(歴史雑談93に原文の写真と、読み下し文を掲載)を熟視すると、誰でもわかるような、いくつか... ...続きを見る

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2011/08/29 12:11
歴史雑談93 法隆寺の謎(4)
歴史雑談93 法隆寺の謎(4)  前回(歴史雑談92)で述べたように法隆寺のご本尊、釈迦三尊像は焼失した法隆寺から持ち出したものとされていますが、実は焼失した法隆寺に釈迦三尊像があったかどうかについては何の記録もありませんから定かではありません。にもかかわらず、釈迦三尊像が猛火の中から持ち出された、つまり、焼失した法隆寺にあったものだ、とされているのは623年三月中に造られていたからであり、釈迦三尊像の光背に刻まれている196字の銘文を、「釈迦三尊像は聖徳太子のために造られたものだ」と解釈しているからです。196字の銘文は言う... ...続きを見る

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2011/08/26 00:41
歴史雑談92 法隆寺の謎(3)
歴史雑談92 法隆寺の謎(3)  法隆寺のご本尊は釈迦三尊像です。日本最初の仏教文化である飛鳥文化を代表する仏像として小学校の教科書にも写真入りで説明していますから、ご存じの方も大勢おいででしょう。法隆寺を訪れたら誰でも拝観できますから、実物をご覧になった方も大勢おいででしょう。実は、このご本尊である釈迦三尊像に大きな謎が含まれているのです。  『日本書紀』の天智紀(天智九年=670)には「夏四月、癸卯朔、壬申(30日)、夜半之後、法隆寺に災あり。一屋余す無し。大雨降り、雷震る。」とありますから、おそらく落雷による火災ではな... ...続きを見る

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2011/08/23 21:03
歴史雑談91 阿倍仲麻呂
 奈良時代、東シナ海を横断して日本と中国を往復することは、まさに命懸けの大冒険でした。遣唐使船は最初、朝鮮半島沿岸沿いに黄海、渤海沿岸をぐるりとまわる比較的安全なルートで往復していましたが、百済・高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した新羅との関係が悪化してから(七世紀後半)は、遭難危険の大きい東シナ海を横断するルートをとらざるを得なくなりました。  奈良時代に五度派遣された遣唐使船のうち、無事に全ての船が戻ってきたのは一度だけで、延べ十九隻派遣された船のうち、五隻が遭難して戻ってきませんでした。中... ...続きを見る

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2011/05/22 09:34
歴史雑談90 前方後円墳(2)
歴史雑談90 前方後円墳(2)  古墳時代を象徴する前方後円墳が最初に現れたのは奈良盆地だとされ、そのもっとも古い形のものを纒向型(ホタテ貝式)前方後円墳と呼んでいて、奈良盆地の纒向地域に最初に現れたとされています。纒向地域に点在する纒向石塚古墳や矢塚古墳、ホケノ山古墳がこれにあたります。同じ纒向地域にあり、同じ頃に造られたとされる勝山古墳や東田大塚古墳はその方形部の形状の違いから纒向型ではないことが判明しており、最初に現れた前方後円墳がホタテ貝式のものばかりでないことを語っています。奈良盆地に最初に現れた前方後円墳は纒向型(... ...続きを見る

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2011/05/14 13:33
歴史雑談89 前方後円墳(1)
歴史雑談89 前方後円墳(1)  奈良盆地には天皇陵や陵墓参考地に治定されている巨大な前方後円墳がたくさんあります。もちろん、治定されていないのもありますが、いずれもその墳丘に立ち入るのは困難です。一方は陵墓であるという理由で、他方は学術調査の対象であるという理由で。しかし、それらの巨大前方後円墳近くまで行ってもあまりにも大きすぎて、樹木の生い茂った大きな丘ぐらいにしか目に映らず、その形を目で確認できるのは中・小型のものに限られます。  上から見ると鍵穴のような奇妙な形をした古墳に、前方後円墳という名前をつけたのは江戸時代の... ...続きを見る

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2011/04/17 16:59
歴史雑談88 円筒埴輪の起源  
歴史雑談88 円筒埴輪の起源    復元された古墳を訪れると、墳丘のまわりや墳頂に円筒埴輪や朝顔形埴輪が整然と配列されているのをよく見かけます。その数の多さと整然たる光景に思わず目を奪われてしまうと同時に、いったい何のためにこんなものをこれほど大量に作って墓を飾るのか、首を傾げさせられます。  実は、この円筒埴輪の起源が特殊器台形土器にあるとされているのです。特殊器台形土器は、大型の特殊壺を載せる円筒形の器台で、その上端部は壺を載せるために二重口縁になっており、また、地面に立てるので安定しやすいように基底部が裾広がりになってい... ...続きを見る

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2011/04/15 15:00
歴史雑談87 「長柄(ながら)」地名考(2)
歴史雑談87 「長柄(ながら)」地名考(2)  「長柄」という地名が、現存する大阪市北区の長柄だけを指す地名ではなく、北区天満にも明治五年まで存続していたことを前回に述べました。従って、難波長柄豊崎宮を長柄という地名を根拠に現存地名のある場所に造営されたとする考えは意味を持たないことがおわかりいただけたと思います。  大阪市に「西成区」という行政区があります。昔の西成郡の名残をとどめる地名ですが、現在は東に阿倍野区、北に浪速区、西に大正区、南に住之江区に囲まれた内陸部にあり、海に面していません。ところが、明治の初めまでは大阪市の大阪湾に面... ...続きを見る

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2011/04/09 16:47
歴史雑談86 「長柄(ながら)」地名考
歴史雑談86 「長柄(ながら)」地名考  現在の大阪市中央区(旧東区)法円坂で難波宮跡の発掘調査が昭和二十九年(1954)から山根徳太郎氏を中心に始められました。山根徳太郎氏は一部の専門家から「あれは難波宮ではなく、難破した山根の宮だ」などと酷評されながらも学者としての信念を貫き通して遂に世紀の大発見を成し遂げられました。大阪歴史博物館からは、今は国史跡となって整備された難波宮跡を氏の銅像と並んで俯瞰し、悠遠なる古代のロマンに想いを馳せることができます。難波宮跡からは前期難波宮跡と後期難波宮跡と称される二つの宮跡と、その下層域の難波宮... ...続きを見る

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2011/04/07 14:16
歴史雑談85 弥生時代の始まり
歴史雑談85 弥生時代の始まり  われわれが習った学校の教科書や参考書では、紀元前三世紀〜紀元後三世紀の約600年間を弥生時代とし、600年間をおよそ200年ずつ区分して弥生前期・中期・後期と呼んでいました。そして、弥生式土器と金属器の使用や、稲作の開始とそれにともなう定住、貧富の差や身分の差が生まれてきたことなどがその特徴とされていました。  貧富の差や身分の差は墓に現れます。大きさや造り方、埋葬場所、埋葬施設、副葬品などにその差が歴然と現れます。これらの差が生まれてきたのも、稲作の開始による集落の形成と定住という社会構造... ...続きを見る

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2011/03/28 13:13
歴史雑談84 万葉集の謎
歴史雑談84 万葉集の謎  奈良時代に編纂されたとされる万葉集の中には、その意味や解釈が常識に合わないために、未だ万葉学者を悩ませている歌が数多く含まれていることは周知の通りです。  『万葉集巻一、雑の歌2』もそのうちの一つです。原文を載せると読みづらくなってしまうので、現代読みを紹介します。 ...続きを見る

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2011/03/23 11:32
歴史雑談83 吉野ヶ里遺跡
歴史雑談83 吉野ヶ里遺跡  吉野ヶ里遺跡と言えば、北部九州の佐賀県で発見された弥生時代の大規模環濠集落跡としてあまりにも有名です。弥生時代の遺跡として戦前から注目されていましたが、本格的な発掘調査が始まったのは戦後になってからです。  昭和61年、吉野ヶ里遺跡調査会や県教育委員会による、工業団地造成にともなう発掘調査が始まり、弥生中期の甕棺墓や後期の大規模環濠(外環濠)が発見され、全国一の規模を持つ大環濠集落跡であることがわかりました。その後も発掘調査が続けられ、内部にも環濠や柵で囲まれた区画(南内郭)や物見櫓(楼閣)... ...続きを見る

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2011/03/11 08:35
歴史雑談82 吉備王国(2)
歴史雑談82 吉備王国(2)  吉備国は、日本書紀や古事記の「神武東征」説話に登場しますから、弥生後期には倭国と並ぶ政治勢力として瀬戸内海に覇をとなえていたものと思われます。その勢力圏は「吉備」という地名の広がりからみて現在の岡山県全域と広島県の東部に及んでいたのではないでしょうか。後世に整備された備前、備中、備後の各国は「吉備国」が存在していたことを前提として分割されたものと考えられるからです。「筑紫」が筑前、筑後に、「豊」が豊前、豊後に、「肥」が肥前、肥後に分けられたのと同じです。  吉備国の中心地は弥生時代〜古墳時代... ...続きを見る

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2011/02/26 15:19
歴史雑談81 吉備王国 
歴史雑談81 吉備王国   弥生時代の昔から吉備国と呼ばれていたのは、現在の岡山県を中心に広島県の東部を含むかなり広い地域で、瀬戸内海に面した山陽地方のほぼ中央に位置しています。後に国郡制が整うにつれて備前・備中・備後・美作の四つの国に分割されました。この四つの国のうち備後国が広島県に編入されています。  奈良時代に太安万侶によって編纂された『古事記』によると吉備地方は、第七代孝霊天皇の時にその二人の皇子が協力して平定した、つまり大和朝廷の勢力下に入ったことになっています。同じく奈良時代に舎人皇子を総裁として編纂された... ...続きを見る

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2011/02/17 18:29
歴史雑談80 法隆寺の謎(2)
歴史雑談80 法隆寺の謎(2)  昭和十四年(1939)の発掘調査の結果、現法隆寺は七世紀末〜八世紀初めに再建されたものであることが確認されました(詳細は前回の「歴史雑談79」を参照してください)。  ところが、決着がついたはずの法隆寺再建論に再び大問題が起こりました。  現法隆寺五重塔の心柱(シンバシラ)を奈良文化財研究所が年輪年代法で測定したところ、594年に伐採された檜であることが判明したのです。年輪年代法による測定はきわめて正確であるとされていますからその通りだとすると、現法隆寺五重塔が再建(670年以後)される... ...続きを見る

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2011/02/11 11:21

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